飛行中の飛行機にバードストライクが発生し、エンジンが左右両方とも停止。機長サリーは、管制室から近くの空港への着陸を案内されるも、空港への着陸は不可能だと判断し冬のハドソン川に着陸することを決断する。
映画中では、安全委員会による事故調査をベースに話が進む。サリーの判断は正しかったのか、空港への着陸はできなかったのか、なぜあえてハドソン川に着陸せざるを得なかったのかを問われる中で、サリー自身も自分の判断が正しかったのかを自問する。
多くの人にとっては「川に着陸する」という前代未聞の出来事で、その上「乗客全員の命が助かった」この事故は、まさしく「奇跡」と呼ぶにふさわしいものだ。しかし、当事者であるサリーにとっては、そう単純なものではない。みんなが肯定的に捉えているなかで、「実は判断が間違っていて不用意に乗客を危険にさらした結果、たまたま助かっただけ」であれば、サリーは悪者になる可能性もある。また、自らが積み重ねてきた経験から導かれた判断が間違っていたとしたら、自分の過去自体が否定されかねない。サリーが抱えるこの悩みは、サリー以外の人に簡単に共有できるものではない。共有しようと口にしたところで、「あなたが起こした奇跡を誇りに思いなさい」などと慰めの言葉がかけられるだけで、真に理解されることなどないだろう。
ここには人間の有限性がある。もしサリーの悩みを町の人々も皆が理解すれば、安易ななぐさめもなく、奇跡の過剰な消費も起こらず、サリーは救われるだろう。しかし実際にはそうはならない。それは叶い得ないのぞみなのだ。
この有限性を生み出すのは、経験の固有性だ。ハドソン川の奇跡という出来事の経験がサリーにとって固有の経験だったからこそ、それを他の人に共有することが難しかったのだ。そして、彼の経験は2つの点で固有だった。
一つは、バードストライクを受けてエンジンが停まった飛行機を着陸させるまでの時間をその飛行機の機長として過ごせたのはサリーだけだったことだ。他の人は当事者としてはこの出来事に参加できていない。この点に関しては、安全委員会の調査により、事故当時の音声記録やエンジンなどの客観的状況の調査、コンピューターシミュレーションを駆使して、他の人も追体験できるようになった。それによって初めて、状況として共有されるようにはなった。
もう一つは、パイロットとしての40年の経験はサリー固有のものであることだ。サリーはその経験を基に、前代未聞の状況の中で最善の判断をした。その経験が別のものであれば、判断の内容も変わっていたかもしれない。
イーストウッドは、こうした有限性を「男の孤独」と捉えてそうだが、男だけでなく人間に普遍的な孤独さである。だがきっと、映画によってこの孤独はいくぶんか救われるのだ。