ハリウッド映画でよくある、境遇の異なる2人が旅する中でお互いを理解し合うハートウォーミングストーリーだと予想していたが、予想を超えてきた。
(ネタバレ含みます)
この映画は、2018年にアカデミー賞の作品賞と脚本賞を取っている。黒人が差別を乗り越えて何かを成し遂げるストーリーは他にもある。そして、この映画は何かを成し遂げることはない。黒人のシャーリーはアメリカの最南部の町々をコンサートして回るのだが、結局最後の町で差別に耐えきれず演奏を降りてしまう。
黒人が差別に打ち勝つ成功ストーリーを期待する人にとっては期待はずれな結末だが、この映画で重要なのは差別に打ち勝つことではなく、シャーリー自身の人生を描き出すことだ。
優れた映画は、語り尽くしたら何年もかかるような内面性を、2時間という流れる時間のなかで画面に映し出す。さらに言えば、映画は時間芸術であり、韻律を踏むことでショットに意味を与える。
この映画にも象徴的な韻律が存在する。 シャーリーは町をコンサートをして回るのだが、彼の顧客は白人のなかでもクラシック音楽を聴く教養ある層である。彼らはヨーロッパで均整の取れた生活を志向している。
町々でのコンサートのシーンでは左右対称で均整のとれた構図で構成される。対称性を強調するために壁でフレーミングされ、中央に物が配置される。彼らはスクエアで切り取られた世界で美しく生きようとしていることがわかる。
こうした構図が、シャーリーが白人の顧客の前で演奏するたびに現れる。もちろん、他のシーンではそうした対称性は現れない。旅行の道中も、旅先で立ち寄る地元の飲み屋や商店でも、常に遠近法的な消失点は中心からずらされているし、正面からのカメラワークがあっても左右非対称に配置される。
訪れる町ごとにこうした韻が踏まれるが、最後に韻を踏むのはどこか。それはシャーリーの家だ。シャーリーはカーネギーホールの上に住んでおり、ヨーロッパの王宮のような部屋に住んでいる。シャンデリアや象牙、ガラス細工や彫刻、さまざまな「美しい調度品」が部屋にコレクションされている。 旅路を終えて家に着いたシャーリーは部屋の中央に座り一息つく。このとき、あの均整のとれた対称性が現れる。が、しかし完全な形ではない。よく見ると、家に置かれた調度品は対称性が崩れてしまっており、乱雑さが隠しきれていない。一見美しく見える部屋の様子は、「美しい調度品」を寄せ集めてヨーロッパ的な美を真似ようとして失敗しているように見える。
ここにシャーリーがどんな人生を歩んできたかが表れている。彼が選んだクラシックピアニストという道は、ヨーロッパ的な美の王道であり、彼は美しいとされるものをかき集めてその頂点にまで至った。しかし、実際には完全に模倣することはできなかった。だからこそ彼は、「白人にもなれない、黒人にもなれない」どこにいてもずれ続けてしまう自分のアイデンティティに苦悩しているのだ。
美しく見える彼の振る舞いや演奏の影にそうしたズレが存在している。ただし、これは述べておかなければならないと思うが、以上のようなことが黒人の白人文化への敗北を示しているわけではない。彼はトニーと旅する中で、ヨーロッパ的な文化の中で得たものを生かして自分の生きていく術を掴みかけているのだ。それは彼がトニーが盗んできた翡翠をコレクションの中に加えることからも分かるだろう。
「構図」の形式的な美しさが主人公シャーリーの内面性を描き出す映画の構造は、クラインの壷的でありなかなか作り出せるものではない。こうした表現力を持つ『グリーンブック』は芸術的な作品と言っていいのではないだろうか。