世界には構造がある。わたしたちは言語を獲得し、過去を現在に紐づけることができるようになったために、物事に構造を見出すことができる。
表現者たちは、何かしらの構造を表現の中に織り込んでいる。にも関わらず、そうした構造が無視されたり、あるいは、見出されたりすることもないことはよくある。もちろん、構造をうまく表現できていない表現もあるし、そもそも構造などない表現もある。
そして、構造は意味を生み出す。構造を理解することで、作品の意味も自ずと理解できる。
作品に意味を見出すとき、見る人自身が変容を起こす。もしかしたらその人自身がすでに気づいていたことかもしれないし、そうではないかもしれない。気づいていなくても、理解できたということはその人の中に潜在的には存在していたと言えるだろう。いずれにしても、自分が持っている考えが、別の表現に見出されるという事実が、その人自身の存在を肯定することになる。
表現に潜む構造を解きほぐすことで、表現そのもの・表現者・表現を受け取るものの存在肯定を手助けすることができるのではないか。自分にとっての批評はそういうものであるのかもしれない。