「ハイカラ」という言葉がおもしろい。
原義
ひとまず辞書をひく。
西洋風を気どること。流行を追ったり、目新しいものを好んだりすること。また、そういう人や、そのさま。
「西洋風でおしゃれ」というようなことを、半ば皮肉混じりに表現するときに使う。
単純に「オシャレだね」と言うのは、オシャレでかっこいいと素直に褒めている表現なのだが、「ハイカラだね」には「あまり見かけないし本当にそれがいいのかわからないけど、まああなたがそれを好んでるならオシャレなんでしょう」みたいな、「わたしには理解できません」的な態度が含まれている。
死語として「ハイカラ」を使う
原義だけでも、「ノリつつシラケつつ」な両義的な態度を含む「ハイカラ」だが、いまこの言葉を使うことにはさらに意味が追加されているように思う。
「ハイカラ」はおばあちゃん世代が使うような、古い言葉でもうぼくらの世代では日常的には使われない。 この、すでに死語になった状況で「ハイカラ」をあえて使うことで、褒め/皮肉とは別に、「ニューヨーク風なイマドキな西洋的オシャレじゃなくて、トラディショナルな西洋風でオシャレだね」というような、意味を含めることができる。「ハイカラ」という言葉がおそらく明治〜昭和期にかけて使われてきた言葉であることから、その当時に「西洋的」と言われていたようなものに対して「ハイカラ」と評することができ、いま現在海外から新しいものとして入ってくるようなものに対しては「ハイカラ」とは言わないでおくことができる。
この使い方をする時にはもう、ハイカラの皮肉的側面における「わたしには理解できません」という態度の意味も少し変わっている。 つまり、原義で「ハイカラ」という時の「理解できなさ」は本当に理解できないものだったのが、死語としての「ハイカラ」の場合は「たしかに昔そういうものがオシャレだと言われていた時代があったのは知ってる」というような若干の理解を含む表現となる。
原義でさえすでに両義的であるのに、死語としての意味も可能であるという二重で多義的な言葉がこの「ハイカラ」なのだ。
時代を内包する言葉
死語としてあえて「ハイカラ」を使うことで、原義の「西洋風でおしゃれ」が今の価値観ではなく当時の価値観としておしゃれであることを表現できることを見てきた。 これはつまり、「ハイカラ」という言葉が、それが生きた言葉として使われていた当時の状況を保存していて、死語として使うことでその状況を取り出せることを意味する。
言葉は、原義に忠実であることだけがすべてではなく、使われる中でいろんな状況や文脈を言葉の中に折り込んでいく。そしてそれを使うことで、折り込まれた状況や文脈をいまここでアクチュアルなものとして蘇らせることができる。
その折り込みの中で奥深くに追いやられ、なかなか思い出されなくなってしまう状況や文脈もあるだろう。人文学の研究というのは、そういった深く埋もれた文脈を掘り起こすことなんだと思う。
多義的な言葉の受け手
さて、「ハイカラ」には原義/死語の二つの用法が取れることを見た。そして死語としてそれを使うことも見てきたが、もちろん現代においても原義で用いることは可能だと思う。
この二つの用法を話者が選択できるということが、受け手が意味を受け取る際の一つのステップを作っている。つまり、受け手はどちらの意味で使われているかを判断しなければならない。
この選択は非常に難しい。文脈から判断するか、リテラルに整理するか。戦略が必要だ。
とはいえ、ここで言いたいのは、どうすれば正しく理解できるかということではない。こうして時代のなかで広く使われてきた言葉の意味を即座に理解することはほとんど不可能だということだ。 「ハイカラ」は比較的新しく、また(ぼくが知る限り)文脈も限られた状況で使用された言葉であり、かつすでに死語となっているため、そこで示唆される意味も比較的限られている。しかし、より多くの文脈で使用されたり、現在でも使われている言葉の場合は、意味の確定はより困難だろう。
ぼくらは言葉を折り開き/説明し(explication)つつ、言葉に文脈を折り込み/含意(implication)する。ぼくらの言語的活動が、つねにこの襞(ひだ, pli)の二重の運動として成立していることは、言葉のダイナミズムとしてとても面白い*1。