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不在の忘却に抗う – クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime展を見て

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ボルタンスキー展

2019年7月25日、六本木新美術館のクリスチャン・ボルタンスキー Lifetime展に行ってきた。

当日、ボルタンスキー展に行く前に、近くのカフェで友人と一緒にサラダランチを食べた。彼女とは大学自体からの付き合いでたまに美術館に行ったりする。

作品の意図?人生への問い?

さて、ボルタンスキーの作品に関しては、ぼく自身は、過去に心臓音のアーカイブを豊島で見たことがある程度だった。鏡の貼られた真っ暗な部屋の真ん中に電球が一つ。心臓の鼓動音が鳴り響く空間は、たしかにエモいとは思いつつ、それにどんな意味があるかはあまりよくわからなかった。ただ、電球の光はとても印象的だった。

ボルタンスキーの作品をまとめて見る機会は、おそらく初めてで、これを機にボルタンスキーと言う人が何をしようとしてるのかを少しでも感じたいと思ったのが、この展示を見に行きたいと思ったきっかけだ。なんとなく名前は聞いたことがあって、なにやら評判は良さそうという印象もあった。

前もってボルタンスキーについて少し知っておこうと、美術手帖の記事を読んでいた。

「展覧会全体をひとつの作品のように見てもらいたいです。それは見る人それぞれの人生を映し出す鏡のようなものでもある。哲学的な考察に身を任せていただきたい」 https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/19974

記事を読んで写真を見ても、それが何なのかまったく理解できない。ホラー調なんだな、くらいの印象だった。 絵画ならなんとなく、何を描いているか、何を描こうとしてるのかがわかりそうだが、ボルタンスキーの作品は手法も幅広く、どこに軸足があるのかわからなかった。

さらに、彼自身が、「哲学的な考察に身を任せてもらいたい」と言う。 ぼくは「見方を観客に任せる」態度は一種の無責任さだと思っていて、作り手は少なくともなんらかの欲望は持っているはずなのに、それをこそ表明せずにいったい何を表現するのか。

人生?記憶。

ボルタンスキーには、人生について考えてほしいと言われたが、彼の作品に通底するテーマは、人生というよりもむしろ「記憶」にあるように思えた。

たとえば、スイス人の死者の写真を展示した作品。教会のモニュメントじゃないかと思うようなファサードで構成され、彼らの前で黙祷するよう促されているのではないかという気がした。

顔の写った写真が複数並べられており遺影のようにもみえるが、僕はスイス人たち一人一人の固有性をボルタンスキーが表現しているようには見えなかった。中には、写真の前につけられた電球で顔がよく見えない作品もあった。

写真を飾った作品の主眼がそこに映る人々の固有性にはないであろうことを見る限り、彼の関心は、彼らスイス人たちが「存在したこと」ではないのだろうと思った。 むしろ、彼らが「不在であること」の方に関心があるのだろう。彼らの人生ではなく、彼らが生きていたという(形式的な)記憶。これらの写真は、彼らが存在したことを示すのではなく、彼らがいなくなったことを示すもののようだった。

そのほかの作品をみても、その印象は変わらなかった。 壁に映し出される「影」、山のように積み上げられた空っぽの「服」、死者に尋ねる声、返事のないクジラに語りかける声。虚無を抱き込むような複数のカタチが、そこに存在しているようだった。

彼らが何者であるかは作品の重要要素ではないし、彼らの顔を見せる作品でもない。重要なのは、彼らが不在であるという事実とその実存的な様式である記憶の方なのだろう。 たしかに、死んでしまった後に完全に無に期してしまい、記憶すら残らないというような考えからは一歩進んでいる。存在-無の二極の間に、不在を設けているのだから。死後私たちは、無に帰るだけではない、誰かの記憶に生き続けるのだと、存在を延命させることができると言っているのだから。

記憶?忘却。

だがさらに、ボルタンスキーは、記憶が薄れていくこと、忘却されることを暗示している。会期が進むごとに消えていく電球、ボロボロの読み取れなくなった写真は、薄れていく記憶の表現だろう。それが、展示の最後の部屋の作品だった。

ボルタンスキーの問いはおそらくこうだ。「死んだあとすぐにすべてが消え去るわけではない。不在・あるいは記憶として残ることは可能だ。では、記憶もまた忘却という死を免れえないのか?」

だから彼の関心は、「神話」に向かうのだ。

「私がいまやってみたいことは、ある種の神話を作り出すことです。[……] 数千の心臓の鼓動を持つ日本の豊島について教えて、そこに行くことはできます。しかし、実際に行く必要はありません。知っておくべきことは島が存在することだけです。それは本当に小説、神話のようなものです。」カタログ内、中井康之「クリスチャン・ボルタンスキーと神話」内の引用より

日本にはお盆というものがあると聞いて、興味を示したエピソードも示唆的だ。

「昨年の春に久しぶりにボルタンスキーと会う機会があった。様々な話題が乱れ飛んだが、彼は日本の夏の風習である「お盆」に関心を持っているらしかった。[……]「帰ってくる先祖というのは、単なる思い出ということか、それとも何か別のものか」と畳みかけて聞いてくる。」 カタログ内、湯沢英彦「終わりなき巡礼」より

記憶が残り続けるという希望にすがっているようだ。彼は忘却を作品で示しながら、どこかで半永久的に残り続ける記憶=神話を願っている。ただし、作品に表現されているのは、神話ではなく忘却の方だった。

思い出を作ること

ニヒリズムだ、と僕は思う。

記憶が忘却されるしかないものだとしたら、ぼくらは自己の存在にどんな意味を見出すというのだろう。もし、生きる者にとっての生きる意味を問うなら、実存主義者が主張するように行動によって意味を生み出すことはできる。では、死者は?不在の者が、不在として実存する「忘却されるべき記憶」にはいったいどんな意味があるというのだろう?

ぼくらがいずれ死ぬということは避けられない事実だ。そして、死んだ先で無に帰ることを思って、自らの生の意味に悲観的になることもあるかもしれない。

彼の言葉通り、作品を見て自分の人生について考えてみると、自分の生きる意味を見出したいと思ってしまう。そして、自らのそうした欲望は、自己の存在と不在がいずれ忘れ去られてしまうかもしれないという事実に耐えられそうにない。

僕らの存在には常に死の可能性が付きまとっている。しかし、死んだ後も記憶として・不在として残るものがある。だが、それすら忘却されていく。 ボルタンスキーが提示するものは、この不在の忘却だった。

少しでも希望を持つには、おそらく他者との関わりが必要だ。 僕は生きていて、死の可能性は未だ沈黙している。忘却の力に逆らうことはできないが、新たに記憶を生み出すことはできる。永遠を願い、失望する前に、有限なこの生に目を向けたい。

Lifetimeとは、死や忘却の力に打ちひしがれる時間ではない、思い出を作っていく時間そのもののことだ。それが海のクジラに語りかけることと同等だったとしても、友人とサラダを食べたことに意味を見つけ出すことはできるはずだろう。

展覧会情報

www.nact.jp

  • クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime 展
  • @国立新美術館 
  • 会期 2019年6月12日(水)~9月2日(月)毎週火曜日休館

クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime

クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime

  • 発売日: 2019/02/15
  • メディア: 大型本