2019年2月2日に一日かけて、原美術館(品川)・ギャラリー小柳(銀座)・ペロタン東京(六本木)・スクランブル交差点(渋谷)と、現在開催中のソフィカル展示すべて見て回った。
ソフィカルは数年前に作品を見たことがあったが、自分にはいまいちピンときていなかった。 しかし今回ソフィカルの個展を巡ったことで、ソフィカルのすごさがなんとなくわかったように思う。
そして、渋谷スクランブル交差点での、「Voir La Mer 海を見る」の上映を見に行って、いつもと違う渋谷、一味違うソフィカルを感じることができ、僕はその空間とそこを漂う空気に感動した。その記録をここに残しておきたいと思う。
ソフィカルの原点に遡る〜出来事と向き合うこと〜
3個所の個展の中でも特に、原美術館の「限局性激痛」の展示は、ソフィカルの特徴が分かりやすく出ていたように思う。
その特徴とは、人が、自らの体験に向かい合うそのプロセスを描き出そうとすることである。
この「限局性激痛」の展示は、19年前の2000年に原美術館で催された展示の再現だ。
「人生最悪の日」までの様子を手紙と写真と文章で表現する第1部。 そして、最悪の出来事について複数の人に語り、相手にも最も辛かった経験を語ってもらうことで傷を癒していくプロセスを、写真と刺繍で表現する第2部。
展示の様子は美術手帖を参考にしていただきたい。
この原美術館の展示では、ソフィカルを含めそれぞれの人が、過去のある衝撃的な出来事をどう昇華し認識しているかが表現されていた。 第2部で面白いのは、ソフィカルは同じ出来事を何度も語る中で、その語り方が変化していくこと。彼女の認識が変化していく様が容易に見て取れる。
誰にでも辛い出来事はある。それは人に言えることだったり、言えないことだったりするけど、ソフィカルはそれを他人に語ることで、昇華しようとした。しかも何度も語っている。しかもその語った内容を、刺繍にして形に残している。
ある出来事に向かい合う過程を作品に残すこと、それがソフィカルの作品によく出てくる主題だ。
実際、渋谷スクランブル交差点で上映された「Voir La Mer 海を見る」も、海を見たことのない人が初めて海を見た瞬間の姿を捉えたもの。彼らが海を見て感じたこと、考える時間をそのまま映像に起こしている。
彼らの姿を見ていると、何かしんみりした気持ちになる。
過去は変えられる
出来事を昇華するということは、その出来事を辛い出来事のまま保持しておくのではなくて、それほど辛くない出来事へと変化させるということでもある。
時にはそれは、「記憶が薄れる」という言い方を当てることもあるかもしれないが、必ずしも薄れるかというとそうでもないと思う。それだけの大きな出来事はそう簡単に存在が薄れるものでもない。
だからこそ、「過去を変える」ことが、その出来事との付き合い方のうまい方法なんじゃないかと思う。もちろん、ここでいう過去とは、事実としての過去ではなく記憶としての過去である。
そうした、過去を変えるということを主題にしていた小説があったので、紹介しておく。平野啓一郎の『マチネの終わりに』である。映画化もされた結構有名な作品だが、おそらくソフィカルト共通する部分があるのではないだろうか。
ソフィカルの作品の特徴〜匿名の個人〜
ソフィカルの作品を見ていてどことなく不思議な感じがするのは、彼女の作品が、彼女個人の思いを強く反映した私小説的なものでありながら、その主体が誰なのかが見えにくい匿名的なものになっているからなんじゃないだろうか。
それは、ソフィカル自身の体験を語る時でもそうだし、ソフィカル以外の人が自身の思いを綴っている時もそうだ。
ソフィカルの作品の中で、経験を昇華する主体はいつも匿名の誰かだった。
「Voir La Mer 海を見る」でも同じだった。彼らの名前はわからないし、どういう人間かもわからない。彼らが過去にどんな経験をしたかはわからないが、彼らは初めて見る海を自らの中で昇華し、自らの中で何か認識をつかむ。
匿名性と普遍性/特殊性
「匿名の個人」について何かを知覚し認識し思考しようとする時、そこには二つの意味が重なり合う。
一方でそれは個人である。つまり、他の誰でもないその人自身の体験がそこにある。(その意味でそれは特殊な体験だ。)
他方で、それは普遍的でもある。その人が匿名であるがゆえに、わたしたちはその人に自分を重ね合わせる余白がそこに存在する。もしかしたら自分が海を初めて見たときのことを思い出すかもしれないし、全く別の「初めての体験」を思い出すかもしれない。
渋谷スクランブル交差点を舞台にしたことの意味
さて、僕は渋谷のスクランブル交差点で、巨大ビジョンに映し出されるおじいさんたちの姿を見ながら、彼らが海と向き合っている様子を眺めていた。
僕は、この映像が、美術館という場を飛び出し、渋谷の街中で上映されたことにとても強く感動している。
なぜなら、一言で言えば、ソフィカルの映像が渋谷の街の見え方を変え、同時に、渋谷の街がソフィカルの映像の持つ奥行きを気づかせてくれたからだ。
この映像を見ながら思った。視界の隅を通り過ぎていく群衆たちも、映像に登場する人たちと同様に、それぞれに何かに向き合い認識を作り上げている。
そう気付いた時、グッとくるものがあった。渋谷に溢れる人たち皆が、ソフィカルの手によって作品そのものになったように思えたからだ。ソフィカルの映像は、ただ静かな空気を作り出しただけではなく、渋谷の街そのものを一つの舞台に変えてしまったように思えた。
それがこの映像がスクランブル交差点で流れたことの効果であり、意味だったと思う。