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数えること、生きること — 宮島達男 クロニクル 1995−2020@千葉市美術館

千葉市美術館の宮島達男展、最終日に滑り込んできた。宮島達男についてはあまり詳しく知らなかったのだけど、今回の展示を通して彼の詩学がよくわかったし、それをわりと好きになれたと思う。

過去に見た覚えのある宮島達男作品

宮島達男はベネチアビエンナーレなどの国際的なイベントにも作品を出すほど活躍している美術作家である。

ぼくは直島で作品を見たことがあり、それについてはなんとなく記憶の片隅にある程度だった。

https://benesse-artsite.jp/news/20190125-1118.html

その作品は、直島の家プロジェクトのうちの一つで、上記のリンク先にあるように、黒いデジタルサイネージのところどころでデジタル表記の数字がカウントされながら表示される作品が、民家の中に展示されていた。

当時はその意図するところがよくわからなかった。デジタルな数字(という形象)は日常のなかでありふれていて、それだけを見て芸術的な意味を見出すのは困難だ。おそらくそれを「レディメイド」だとラベルすることは可能ではある。しかし、どういったコンテキストにおいて、どんな意味を持たせているのかということに関しては、作品単体から読み取るのは至難の技だろう。 とはいえ当時はそれほど調べたりもしなかったので、「デジタルな数字」に、その無機質感による抽象性や、それを人の手によって作るという逆説などを読み取れるのではないか、とは考えていた。ただし、実際にその解釈が作品と適合することを確認できる手がかりは特に見当たらなかったと記憶している。 けっきょく、そこに表示される数字のカウントのテンポが異なっていることから、何かしらそれぞれのリズムを持った存在の共存のようなものなのだろう…というくらいの認識で落ち着いていた。

さて、今回の展示では、まさしくその「数字が持つ意味」を冒頭で提示してくれる。そして、その意味のバリエーションが展示を通して示されていて、観る者は次第にその奥行きを認識できたと思う。そういった構成から、「宮島達男 クロニクル」ではあるが、ぼくとしては年代軸よりも概念の展開(expliquer)だという印象を持った。

展示内容について

数字の意味 -- Counter Voice シリーズ

冒頭では、いくつかの映像作品が大きなスクリーンに映し出されていた。その傍らには、コンセプトボードのような、コルクボードも展示されており、映像の持つ意味がわかりやすくなっていた。

特に、コルクボードに端的に書かれている数字の意味は、彼の作品のコアをそのまま宣言している。

いくつかCouter Voiceシリーズの映像が流されていた。Counter Voiceシリーズは、Counter Voice in X という形式でタイトルづけされていて、Xにはたいてい、液状のものが入る。登場人物はこちらを向いて9から1まで数えた後Xの中に顔をつけるという行為を繰り返している。 コンセプトボードには、以下のフレーズがあり、0が死、それ以外の数字が生を意味することが読み取れる。

たしかに、Xに顔をつけている間は呼吸ができず、断続的にその行為をしているうちに、息苦しさを感じている様がそこには映し出されていた。

面白かったのは、外国人の役者がパフォーマンスを行うCounter Voice in wineではかなり息苦しそうで見ているこっちも苦しくなってきそうなくらいだったが、本人が出演しているCounter Voice in Chinese ink. ではそういった息苦しさは感じられず、むしろ自ら能動的に死へと向かっていくような勢いが感じられ、生の苦しさよりもむしろ活力の溢れ出る映像になっていたことだ。自ら考えたパフォーマンスを実行するときには、そういった潔さが滲み出てしまうのだろうか。 おそらくそういった演出なのだろう。

いずれにしてもここで数字の意味が理解できる。カウントされる1から9の数字は彼にとって生を意味し、0(作品上では0はカウントされない。したがって無という方が正確。)は死を意味する。提示されてみれば、非常にシンプルな象徴だ。

パフォーマンスでは、身体を用いて表現することでその意味を包括的かつ端的に表現していた。 この後に続く展示では、その数字の意味が視覚的な平面に応用されている。絵画的な形式の中に、そのテーゼが織り込まれていくのだ。

視覚的な0の表現 --- Counter Window

ここからは、パフォーマンスではなく、平面やオブジェクトの作品について取り上げていこう。これらを経たのちに、最後のインスタレーション(直島の作品と同類のもの)を見ることで、その作品に深みを見出すことができる。

f:id:anderiens:20201216203857j:plain

次の作品は、Counter Windowだ。 この作品では、窓に貼られた液晶上で、9から1の数字がカウントされている。数字を構成する、図と地で言えば図の部分は、透明になっており窓の向こうの景色を見ることができる。対して図の部分を透しては向こうの景色を見ることはできない。 そして0をカウントする時、窓は地で覆われてしまい、窓から向こう側を見ることはできなくなる。

こうして数字が現れる/現れないという対比は、窓の向こうに見える景色が見える/見えないという点で、Counter Voiceにおける生と死の対比に対応している。宮島達男は、デジタルな数字の形象が現れるところに生を、現れていないところに死を対応させている。

ここには二つの有限性が見て取れるように思う。ひとつは、9から1という時間的な有限性。もうひとつは、その形そのものの有限性だ。

前者については、私たちには寿命があるというような、アンドリューNDR114でロボットが求めた有限性であり、「私たちはいつか死ぬ」ということは誰しもが受け入れていることだあるので、理解しやすいだろう。 後者については、必ずしもそうではないかもしれない。それが示すのは、時間的な有限性も関与しては居るのだが、時間性を取り除いて瞬間的/永遠的な観点に立ったとしても、わたしたちは存在そのものとして有限である。これは、数字を通して見る風景がとても限定的であることから感じとることができる。

こうした有限性が表現されていることで、宮島達男が表現する生には、ある種の儚さを感じ取ることができる。(追記する)

こうして宮島達男が作り上げるプラトーにおいては、数字の不在は死を意味することが見てとれた。

これは、Led作品にも受け継がれていく。 ぼくらはすでに、カウントされる数字に、生命を見出すように変容した。さらに、複数の数字が一つの平面に収められるとき、それを生命の集合を意味するものとして理解する。

数字のカウントのリズムは、それぞれ異なっている。よどみに浮かぶ数字たちはかつ消えかつ結びて久しくとどまるところがない。 最後の部屋では、この諸行無常インスタレーションとして展示される。これは壮観だ。生きるということ以外何も意味しない数字のカウントからは、生命のエネルギーを感じ取ることができる。悲壮感も高揚感もなく、ただわたしたちは純粋な生そのものをそこで眺めるのだ。

こうして、直島の作品も、今回の展示の作品と同じく、生の集合体として解釈し直すことができる。またいつか見にいこう。

宮島達男 Art in You

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