東京都現代美術館で開催中の「MOT ANNUAL 2023 シナジーと生成のあいだ」展で花形慎はマウントディスプレイを使って視覚の位置を変えた人間に生成することを試みていた。
花形槙 1995年生まれ。加速する資本主義社会においてテクノロジーによる新たな身体を模索し、自己と他者、人間と非人間の境界を往来しつつ、「私」ではなくなっていく、「人間」ではなくなっていく肉体についての実践やパフォーマンスを展開する。本展では身体にカメラとヘッドマウントディスプレイを装着して視覚の位置を転移させ、人の動きの再構築を試みる展示を行う。
still human – アフォーダンスのずれ
花形はテクノロジーによって視覚を変えたこの人間を「still human」と呼ぶ。still humanと名付けた理由が何だったかは記憶にない(見落とした)。
still humanになるとき、「アフォーダンスに拒絶される感覚」があると花形は言う。これは、私達が生きている環境が私達の身体と適合しており、still humanの身体とは適合できていないことからなされた発言と理解できる。
still humanはドゥルーズ&ガタリが提唱した「器官なき身体」とコンセプトを共有しているように思う。「器官なき身体」の「器官」とは、人間の身体の何らかの機能性を指す。例えば、手は物を持つことができるし、口があることで呼吸をしたり、物を食べたりすることができる。しかし、口が物を食べるという機能を持つ前に、物を食べたいという欲望があるからこそ、口がその機能を持つに至る。すなわち、器官なき身体は欲望の源泉となる身体であり、その欲望のあり方とそれを取り巻く環境に応じて、器官のあり方は変わってくる。例えば、もし地球上に栄養となるものが液状のものしかなかった場合、口の中に歯はできなかったであろう。より原初的な創造活動や生産活動の源泉となる欲望を生み出す源となっている身体を指す。
still humanの場合は器官がないわけではなく別の器官に付け替えているだけにすぎないという点はあるだろう。器官を付け替えても欲望も環境も変わらないのであれば、身体のあり方は結局今の器官に収束してしまわないだろうか。とはいえ、器官を付け替えるだけでも現在の環境がもつアフォーダンスとのずれを感知できるという点で、器官なき身体を部分的に体験でき、現状の身体と環境との関係性について問うことができるだろう。
still humanの発生
花形の面白いところはこうしたアフォーダンスとのずれを感知できるstill humanに実際に生成(becoming)するだけでなく、still humanを生物学的な観点と美術史上の身体史の上で発生させなおそうとしている点にある。
これまで見てきたように、器官なき身体が環境に適応するなかで器官は発生する。ホモ・サピエンスの身体をリバース・エンジニアリングするかのように、人間の身体に関するあり方は生物学者や、美術家によって探求されてきた。これによって人間の身体というコンセプトと同様に、still humanのコンセプトがより綿密に織り込まれていくことになるだろう。ヴィンケルマンが肉体美を称賛していたことを思い出せば、「still humanが/を美しいと思うのはどんな場合か」と問うことも可能かもしれない。
一般に受け入れられるテクノロジーは主に人間の身体性を補完するものだが、人間に適応してテクノロジー環境が進化した結果を人間の身体にフィードバックさせることで、人間の身体はテクノロジー環境により浸透していくだろう。非人間的と捉えているものがいつの間にか人間的と言われる時代も遠くはないのかもしれない。