AnDeriensのブログ

個人的なブログです

没入と逸脱

面白いものを見つけると、それにハマりたくなる。時間を忘れて、一気に消費する。夜に開いた本を朝までに読み切る。いつもなら寝る時間でも、そういうときには夜ふかしをする。 仕事や学校で仕方なく中断せざるをえないとしても、帰ってきてすぐにそれを開き直す。 そんな没入の時間が、たまに、年に数回あるかないかくらいで訪れる。

没入すると、そのコンテンツの世界に深く入り込むことができる。あたかも自分が主人公になったかのような、その世界の住人にでもなったかのようなそんな気分になる。この没入の時間を経ることで、自分がなにか別のものになったかのような気分になる。

映画は比較的短く没入の体験をできるメディアだと思う。小説やアニメは、消費し切るのに6時間前後かかるが、映画であれば2時間で消費できる。しかも映画館という、スクリーンにのみ集中できる環境が用意されている。映画に没入したあとは、映画館に入る前とは外の世界の見え方が変わったように感じる。

逸脱とクリナメン

ここで少し別の話をしよう。

古代ローマ時代に書かれた本で『物の本質について』という本がある。著者はルクレティウス古代ギリシャエピクロスが唱えた原子論をもとにした世界観を語る哲学書である。キリスト教的な世界観では物は神が作り出したものだと考えられていたのに対して、原子論の世界では物はすべて原子の集合と理解されている。これは現代科学においてもある程度は受け継がれている世界観である。

(ざっくり)この原子論の世界においては、目に見えない原子が空間内を飛び交っており、それらがぶつかり合い塊になることで目に見えるものができる。また、原子はただまっすぐ飛んでいくだけじゃなく、時折微小に運動する方向を変える。この運動の方向が変わることを「クリナメン」と呼ぶ。クリナメンがあることで、世界は必然的な動きだけではなく偶然的な変化をすることが可能になる。

クリナメンは、予定調和を逃れ、創造や生成変化の契機となるため、多くの人に注目されてきた。 かのカール・マルクスも博士論文(「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」) でルクレティウスエピクロス)の原子論について取り上げ、必然性から逃れるクリナメンという契機に着目している。

日常での小さな創造

何らかのコンテンツに没入するような体験は、クリナメンのようなものではないかと思う。

ぼくが没入して、世界が変わったかのように見えたとしても、世界の側から見れば別に特別何か大きな変化が起きたわけでもない。みんな変わらず、食事をして働いて、生活をしている。目に見える変化はないだろうが、自分の中で何かが変わっている。

この変化をきっかけにして、少しずつ自分の行動や価値観が変わり、いずれ目に見える変化を起こすことになるかもしれない。世界にとっては変化でなくても、自分にとっては間違いなく変化なのだ。

日々決められたことを続けることも自分の生活を守る上では必要なことだが、時にはそうしたものから逸脱して、自分がハマりたいと思えるものに没入できると、世界を広げることができるかもしれない。