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聲の形感想 ドラマ化された死と生の変質

映画 聲の形を見た。(ネタバレ含む)

いじめっ子に傷を背負わせることで、いじめられた側の傷の深さとその乗り越えを暗示的に示している点は、現代のよくあるいじめ問題をうまく描く仕掛けとしていいと思う。どんなにいじめられっ子側の葛藤を描いても、いじめた側が変化しないと救われないから。 いじめの後に救われるための道筋がこんなに大変だってことを見せているという点では、いまの世の中の見えづらい部分をうまく物語にしていて、意味のある映画だった。

とはいえ、物語の構造として、いじめの傷の臨界点に自殺を置かないでほしいな。二人の主人公はどちらも自殺を仕切る一歩手前まで行くが、実際には死ぬことはない。

ここでの自殺はドラマ化されて乗り越えられることが運命づけられていて、その後の救いのために置かれた予定調和なプロットでしかない。 死ぬ理由や死ぬまでの葛藤の描写は少ないし、死ぬことをやめた後本人たちはあまりに早くけろっとしている。いじめる/いじめられることに対する葛藤は本人たちに重くのしかかるが、死のうとしたことに対する葛藤はそれよりも軽視されている。

死は魔法だと思う。 死は現実に生きる実存にとっては到達しえないものであるが、そうであるがゆえに死に一歩足をかけることで、生は変質することができる。 多くの物語では、生の変質のため・生が転換するためのプロットとして死が設置される。そうした物語上の死は、生の変質を目的としているために乗り越えられることが前提されている。

しかし、実際には、目前に迫った死を逃れるのは難しい。また、死自体を回避できたとしても、死のうとした事実を乗り越えることはさらに難しい。 さらに、死のような魔法的な出来事は実際には起こらず、生を転換させるには持続的な変化が必要になる。死の先の未来がどんなに輝かしくても、現実はそう簡単にわかりやすい臨界点は表れない。