AnDeriensのブログ

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無題

前のテキストを書いてからひと月も経ってしまった。


ぼくらは目の前の問題に目を塞ぎつつ、前に進もうとしている。いや、前に進んでいってしまうというほうが正しいのかもしれない。

いま、生きることや生き続けることに対して意識を向けなければ、自分や周囲の人々を危険に晒してしまう状況のなかでぼくたちは生きている。以前であれば、生にもっと意味を付け加えようとしていたかもしれないが、今は生がただ生きているという意味のみを持つように収斂している。死が近くに迫るとき、生の意味は極小化される。

この状況下でも、生をより豊かにしようとしてしまうのは現代人に根付いた思想か、あるいは人間の本性なのかもしれない。しかし、豊かさを求めすぎれば、最小の生さえ失われてしまうことになりかねない。ぼくたちが必死になっているのは、このバランスをとることなんだろう。極限まで豊かさを求めなければ、わたしたちは潜在的な経済的競争に負け、人間らしさを失ってしまいかねないからだ。

人間らしさの喪失は、生きながら死ぬことである。死が無に帰することであるなら死後には何も感じないはずだ。対して、生きながら死ぬ際には、感情は感じられるまま死ぬことになる。きっと、この苦痛の方が死の苦痛よりも耐え難いだろう。

だから人間は自殺を選ぶことがある。生きながら死んでしまうより、本当に死んでしまった方が楽なことがあるから。

おそらく人が死を恐れる理由は、自分が死に損ねた際に生きながら死ぬ可能性を考えていないか、あるいは、他人の死の受け入れ難さをそのまま自らの死に転用しているからじゃないだろうか。 自分にとって近しい人の死は、悲しみと喪失感をぼくに押しつけ、ぼくから生の意味を奪い去る。人によってはこの悲しみを根拠に自らの死を恐れる人もいるだろう。しかしそうした混濁した判断をすべての人が受け入れる必要はない。 より正しく、生と死を恐れるべきだ。

ぼくたちの生を駆り立てているのは、生きながら死ぬことすなわち人間らしさを失うことへの恐怖と、人間らしさを獲得するための競争、多義的な生を獲得するためにますます加速する社会、多義性を追いすぎて足元の唯一の生を失わないようにするための一時的な盲目である。

生きることはもっとシンプルだ。 あなたが愛を注ぐ先が存在すること。おそらく、生が持つべきたった一つの意味だ。プライドも見栄もいらない、あなたがただ愛を注げばよい。注ぐ先が自分でも草花でも人でも石ころでもいい。 より多くもより少なくもないこの意味を探すには、いまはいい時代なのかもしれない。