AnDeriensのブログ

個人的なブログです

日記 20220628

日記を書こうとしてみるが、周りの目を気にしてしまってうまく書けない。

いや、正確にいうなら、日記に期待するものと、ウェブ上に置かれる記事に期待するものとのあいだのギャップをうまく埋められず、自分のうちから発生してくるものは日記的であるのに対して、ブログという場が記事的であるべきだという思いとのあいだのダブルバインドに陥ってしまい、身動きが取れなくなってしまう。

日記というものは、体裁を気にせず、その日にあったことやその日に考えたことなどを徒然なるままに認めるべきものだろう。記事は、体裁の整わない情報の集合体を、読者の読みやすい形に整えて出すべきものだ。

と、日記とエッセイの二項対立のうちで話をつけようとしているが、今書いているものは日記ではなく、エッセイだろう。日記にはその日のイベントが必要だが、まだ今日起こったことは何一つ書かれていないからだ。しかし、エッセイは日記的だ。エッセイも体裁を読者に合わせて整えるようなことはしない。

記事が想定する読者とはなんだろうか。あるいは、記事が目指すべき体裁とはなんだろうか。 日記にも体裁がないわけではない。体裁とは「他人から見られた時のかっこう」を指すようだが、他人を未来の自分に置き換えてしまえば、日記の体裁というものを考えることもできる。 記事の体裁を経験則から考えてみるに、ウェブ上の記事については、一例として「注意力の持続しない人」が想定読者像であり「サブタイトルだけ見て内容がわかる」ようにサブタイトル等を整えることが記事に求められる体裁といえる。

体裁はどこから生まれてくるのだろうか。 記事の体裁などは最初からそうだったというものではないだろう。読者像についても、記事を読む人の属性として「注意力が持続しない」ということを言っているわけではなく、読者が記事を読む環境がスマホで空き時間に読むものであるために読者は記事に没入できないというのが一般的な理解だ。 つまり、体裁は、必ずしも読者の属性や記事の属性によるとは限らない。体裁は、読者と記事を取り巻く環境から生まれることがある。

すると、こう考えることができる。読者、記事、それらを取り巻く環境が変われば、それらを調和する体裁にはまったく別のあり方がありうる。

今日の日記を終える。