AnDeriensのブログ

個人的なブログです

右と左ってどっちがどっちだっけ?お箸を持つ方が右。私左利き。

むかしは哲学とか好きだったけど、最近はだんだんとそういうことを考えることがなくなっていて、かつてどういうモチベーションを持っていたかも忘れかけている。

記憶が少しでも残っているうちに、少しでも掘り起こしておきたい。ただし、もはやそれがたしかなものなのかはよくわからない。

なにを考えるとテンションが上がっていたかを思い起こして考えてみる。カフェの席に座り、道行く人を眺めながら、「それぞれの人にそれぞれの思考や歴史がある」ということに思いを馳せているとき、えも言われぬ感情が湧いてきていた。

ふだん自分が見たり感じたりする世界にそうそう大きな変化が起こることはない。お米や野菜を食べればその味がするし、好みが突然変化するなんてこともほとんどない。だから私たちは世界はそんなに変わらないと思っている。そして、そんな世界の中に現れる別の人間もまた、同じように変わらない世界の住人であるかのように感じている。

たぶん、みんな変わらない世界の住人だろうとは思う。けど、ぼくがみる世界と、ほかの人がみる世界とのあいだに違いがないかというと、そうとは限らないだろう。同じ野菜でもぼくは好きである人は嫌いだったりする。それどころか、まったく違う色に見えているということだってありうる。科学的な分析を抜きにすれば、ぼくが赤色だと思っている感覚が、ある人にとってはぼくが青色だと思っている感覚に感覚しているということはありうる。それでも、世界はそれを「赤色」と名づけているという事実だけで、ぼくらがその答え合わせをすることは不可能だ。実際には、光のスペクトルを分析して波長が異なることを示せば、答え合わせは可能だけど。

科学的な知識というのは、人類の、連綿たる努力の上に成り立っている。ぼくたちがいくぶんかの答え合わせをしつつ、何かを共有していると強く宣言できるのは、そういった科学の営みがあるからだろう。

とはいえ、科学的な知識がいつでも正しいとは限らない。反例が見つかればいつでもひっくり返るもので、時代によって更新されるものだ。むかしは空気中にはエーテルが充満していたが、いまではそんな事実はない。 だから、科学的知識があればぼくらが互いに答え合わせをできるかといえば、必ずしもそうではない。ぼくらがすれ違っている可能性は、科学の力をもってさえも捨てきれないものだ。

ではどうするのか。 科学が実験を繰り返し反復の中から一般性を見つけるのと同じように、自分自身の日々繰り返される経験の中に固着した感覚や認識の塊を見つけ出し、自分なりに表現することができる。それは科学のような客観性をもたないが、しかし、自分自身にとっては真実であり、世界である。

たぶん、哲学とはそういうものだろう。 自分の経験を外れた実証や歴史が必要だとは限らない。そういうのがあれば、ちょっと答え合わせがしやすいというだけのことだ。

おしまい。

ちなみにそういう人の認識と言語活動について、哲学者の議論を紹介しつつわかりやすく説明しているのが、柏木達彦シリーズなのでおすすめしておきます。