「重要なのはプライバシーが自己決定権であると認識することです。自分で決定し、自分で守る。そしてこれは極端な話、『嘘をつく(自ら偽装する、暗号化する)こと』によって成立するのです」
「友人には嘘をつかれたくない」「不誠実な人とは付き合いたくない」と常々思っていた。それは、嘘をつくことが、自分への不信を表すものだと思っていたからだ。だから、ちゃんと向き合って関係を構築したい人には嘘をつかないことを求めてきた。
けどそれは、相手の自由とプライバシーを奪う行為だったのかもしれない。
プライバシーとはなにか。個人の私生活そのものであり、秘密である。
プライバシーを奪うことを求めるということは、その人の個人としての存在を危機に晒すことであり、彼/彼女の尊厳を貶めることになりかねない。
他方で、そういった秘密を共有することこそが、同じ「私生活」を所有し共犯関係になるという点で、「親密さ」を示すことにもなるという側面がある。
アーレントのいうように、私的領域とは同じ暴力性によって規定される領域のことをさす。プライバシーを晒すという暴力を被ることで、同じ私的領域に属することになる。
武邑氏の言うように、情報化が進むなかで個人情報はますます社会のなかに浸透し、知らず知らずのうちに私たちはプライバシーの領域を狭められている。個人のさまざまな行動データを取得し「サービス」化することで生活の利便を謳う社会の流れは、暴力的ともいえるほどの勢いがあるが、そうしたなかで私たちは再度、個人の場を取り戻すべきなのかもしれない。
私的領域が暴力性を要請するのは、それが「生きるために必要」だからだった。すなわち、家族という構成単位が、自らの生活を維持するために個々人の自由を犠牲にし、労働する必要があったのだ。 逆に、私的領域には属さない公的な場は、生命にとって必要というわけではない。それは、私たちが自由であるために、生存から要請される暴力性から解放されて自由であるための場だ。
すると、個人情報が社会へと流れ出る現代においては、プライバシーを守るということ、私的秘密を守るということこそが、自らを自由で公的な存在として存立させるための条件といえる。もはや、アーレントが古代ギリシャ社会から引き出した「私的領域」は、プライバシーの領域とは相容れないだろう。
- 作者:ハンナ アレント
- 発売日: 1994/10/01
- メディア: 文庫