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一労働者の領土化と脱領土化

ドゥルーズガタリが提示した概念の一つに「脱領土化」がある。ポストモダニズムを参照する際によくデリダの「脱構築」に言及されるが、それに類する概念で、簡単に言えば、「固着した考えから抜け出す」ことだ。

領土、というのはテリトリーの訳語で、つまり、居心地のいい場所のこと。「脱領土化」は、居心地のいい場所を抜け出してやろうということ。

にんげん、5年も仕事を続けていると、だんだんと昼間のしんどさとその前日夜の過ごし方とがリンクしてくる。夜12時には寝て、睡眠時間を8時間取り、1時間ほどで朝の支度を済ませ、朝9時から仕事を始めれば、一日の準備を朝のミーティングまでに済ませることができ、業務を速やかに遂行でき、仕事が滞るストレスを減らせる…。この計画に従えば、夜は12時に寝ておくべきなのだ。

このフローは一つの「領土」である。計画通り事が運べば、過度なストレスもなく、仕事を終えることができるだろう。

しかし、この領土に住み続けなければならないという制約を自分に課し始めたときから、居心地の悪さを少しずつ感じるようになる。

領土を出ることは本来、自分の身を守るために必要なことではある。領土から出ることは自分の身を危険に晒し、自らの根源的な権利や自由を損なうリスクを孕んでいる。しかし、領土を出ないことが自己目的化すると、それは自分から自由を奪う枷としても機能する。 この領土の両義性をしっかりと認識するために、あるいは、領土を出ないのは外の危険があまりに大きいからだということを思い出すために、たまに外に出て見ることが必要ではないか。もしかしたらすぐに逃げ帰ってしまうかもしれないが、領土に相応しい別の何かを見つけることができるかもしれない。

これを書いているのは午前4時。とりあえず12時に寝て9時に起きる計画は崩れている。脱領土化できるのだろうか。